次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
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| 舗装道路が、風景を大きく変えている。私が子どもの頃(ころ)と、大さく変わったのは、道路にぬかるみがなくなったことである。どんな道路もぴかぴかで、泥など見たくもないというァ執念を感じさせるほどだ。 |
| いたるところにあったぬかるみが、今では懐(なつ)かしくすらある。路面は空を映した。晴天がつづげばィ乾いて土埃(つちぼこり)が立つ。雨が降れば水溜(みずた)まりがでさた。道路は子どもの遊び場でもあったから、大隈によって遊び方は変わった。どこからてつやって飛んできたのか、中山貞中小り水溜まりの水面をアメンボが気持ちよさそうに点り、水中にはゲンゴロウが一生懸命泳いでいたりしたものだ。そんな水と接するのも楽しかった。 |
| 冬は水溜まりが凍った。白い薄氷を踵(かかと)で踏んで、割っていくのも、登校途中の楽しみだった。靴底でスケートの真似事(まねごと)もできた。どうしても割れない氷を、意地になって石で割ったこともあった。コンクリートのように固まっていた@氷も、昼頃にになると、さすがに堪(こら)え性もなくなって溶けてくる。 |
| 道路の柔らかい土には霜柱もできた。獣の歯のように盛り上がった霜柱は、透明なゥ鋭い美しさをたたえていた。これを踏み潰(つぶ)すとザクッと悲鳴のような音がして、ズック靴がもぐった。大きな霜柱は食べられた。ゆびさきで摘(つ)まんで口にほうり込むなり霜柱は溶け、少し甘いような土のかおりを残した。 |
| A路面は季節の移り変わりの鏡でもあった。たいていの家では、練炭を使っていたから、大量にでる灰を、水溜まりになる路面の窪地(くぼち)に捨てた。そうするといつの間にか水溜まりはでさなくなる。B一挙両得であった。 |
| 春になれば氷もゆるみ、ぬかるみができる。泥はやっかいな存在ではあるが、春を告げる喜びのしるしでもあったのだ。春泥(しゅんでい)と文字に書くと、なまめかしいような気分が伝わってくる。春はやはりなまめかしいものなのだ。 |
| 春の泥には足を取られる。よほど注意深く歩かねば、靴や下駄(げた)やぞうりはおろか、着ているものまで汚してしまう。だからこそ、人々は情感を持って春の泥と接していたのだ。 |
| ぬかるんだ道を向こうから人がやってくる。普段ならどうということもなく行き交える道ではあるが、ぬかるみのために一人しか通れない。ずいぶん先からやってくる人に道をゆずろうと心の中で決め、ぬかるみの手前で立ち止まっていたら、先方も立ち止去っていた。どうぞどうぞとゆずりあい、結局はゆずられてしまう。 |
| 道は一歩一歩あるくものである。心をこらして泥を踏みしめていけば、路傍の花や虫の小さな世界も見える。向こうからくる人と道をゆずりゆずられ、思わぬ椅懸を共有することにもなる。泥さえもが、人々の心を映していた。 |
| 大丈夫だと思ってはいっていくと、ぬかるみは思いがけず深い。足を取られ、進退がきわまってしまう。そんな時にかぎって、知った人が向こうからやってくる。そうこうしているうちに、先方もC自分と同じような状態になっている。 |
| そんな時でも人を無視するわけにはいかない。仕方ないから遠会釈(とおえしゃく)をする。お互いの置かれた立場はわかりきっているので、そこに淡い共感が生まれる。 |
| (立松和平『象に乗って』による) |
| (注) |
練炭 |
= |
木炭や石炭の粉をねり樹めてつくった燃料。 |
| 遠会釈 |
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遠くから軽くおじぎをすること。
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