2006年度 東京都公立高校入試問題 50分
( 国 語 )解答
書式の関係で横書きになっています。
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 次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。 (*印のついている言葉には、本文のあとに(注)がある。)
 家の中はしんとしている。父も母も出かけているのだろうか。わたしは起き上がり、冷たい水を飲むために部屋を出た。そういえば、今度の日曜も自転卓の練習よ、と母が言っていたことを思い出した。 五十歳を過ぎた母が、自転車に乗れるようになりたいと言い出したのは、この街に引っ越してきてからだった。その頃(ころ)、我が家ではいろいろなことが大きく変わろうとしていた。長年勤めた会社を辞めて独立した父が、この街で新しい事業を始めたのだ。それまで住んでいた家を売って事業資金に充(あ)て、わたしたちは父の会社の近くに小さな部屋を借りて住むことになった。
 住み慣れた土地を離れ、生まれてから一度も行ったこと
のない場所に住むというのは、なんと心細い気持ちなのだろう。引っ越す部屋を最終的に決めるという日、両親と弟と四人で、初めてこの街に下り立った。電車が大きな川を渡ると、窓の外の風景は突然なじみのないものになった。
 (1)新しくできた駅の、まだコンクリートの色が白いプラットホームに風が吹き抜けていった。
 引っ越した翌口から、目まぐるしい日々が始まった。母は父を助けて経理の仕事をするため、夜間の経理学校に通いながら、昼間は会社でともに働いた。朝早くから夜遅くまで、ふたりは働き通しだった。弟はすでに独立して一人暮らしをし、わたしも深夜まで残業して帰らない。家族の姿を家で目にする機会は急速に減り、両親と話をする時間もほとんどなくなっていった。
 ときおり交わす朝食の会話の中で、母の通う経理学校や父の会社が、家から自転車で行かれる距離であるということをなんとなく聞かされていた。自転車があればねぇと、母は言うともなしによく呟(つぶや)いた。そしてある日、ついに自転車を買ったと告げられたのである。
「ええっ、もう?」
 わたしは驚いて言った。
「だって、練習を始めなくちゃ。」
「ちょっと待ってよ。危ないわよ。やめたはうがいいんじゃない。バスだってあるでしょう。」
「バスは遠いもの。」
 乗ってしまえば、バスのはうがずっと早い。
「そりやそうだけど、パパと一緒に行きたいのよ、自転車二台、連なって。」
 母は嬉しそうだった。
 道端の雑草にうっすらと土埃(つちぼこり)が積もっているようなこの街の中で、家のすぐ近くにある細長い公園だけは唯一、心和む空間だった。公園といっても、*グリーンベルトに近いようなものである。服を着替えると、わたしは部屋の窓を大きく開け放ち、公園の方を眺めた。菜を青々と茂らせているあの木の下あたりで、母は父に助けられながら細い道を行ったり来たりして自転車を練習しているはずだ。


「いいか、まだだぞ、しっかり前を向いて!」
 小学校三年の夏休み、家の近くの公園で自転車を練習した。父の声が背中から飛んでくる。荷台をしっかりとその両手で支えられて、自転車は辛(かろ)うじて立っていた。
 (2)ギュッとハンドルを握り締め、グイと前を見つめた。よし、いまだっ。掛け声とともに強くペダルを踏み込んだ。ざざっと父の運動靴が土を蹴(け)る音がする。よろよろとおぼつかない動きで、自転車は前に進み始めた。
 怖がらないで、もっと漕(こ)いでスピードを出せっ。ダメダメ、手の力を抜かなけりゃ。そう、大丈夫、押さえているからな、転ばないからな。そうだそうだ、いいぞ、頑張れ。
 必死でペダルを踏んだ。
 手を放さないでっ、絶対放さないでよっ。
 大声で叫びながら百メートルほど先のイチョウの木に向かって突進する。どうにかこうにか木の下まで行き着いても、今度は方向転換がまた大変だ。ペダルが足から離れそうになり、そのたびにハンドルに力が入って右へ左へぐるんぐるんと曲がりそうになる。怖い。
 腕の力を抜いてっ。緊張した背中に父の声がかかる。
 ようし、思いきって力を抜くぞ。
 するとペダルは一気に早く回転するような気がした。そ
して次の瞬間、ふわりと軽くなった。うわあ、どんどん行く、どんどん行く、お父さーん。
 振り返ろうとして、はっと気がついた。いま一瞬目の端に飛び込んできたあの人影はなに?まさか……。自転車は再びイチョウに差し掛かった。木の陰に、手を腰に当て二コニコしながら立っている人がいる。お父さんだ、手を放したんだ!
 そう思った瞬間、わたしは自転車ごと横倒しになって地面に滑り込んだ。
 したたかに股(もも)を打って泣きじゃくりながら、乗れたんだよ、もも子ひとりで走れたんだよ、と言う父の声を聞いた。
 (3)「わたし、乗れたの……?」
 涙の下から恐(おそ)る恐(おそ)る問うと、そうだよ、もう支えなしで乗れるんだよ、と答える笑顔が目の前にあった。

 後ろで支えてもらっているときの、振り返りたくてもそうしてはいけないような、ちょっと心細いような気持ち、それでいて温かい安心感に包まれたような気持ち。母もいま、臙脂色(えんじいろ)の真新しい自転車にまたがって、緊張に顔を紅潮させていることだろう。明日は自転車で出勤できるだろうか。
 高齢で独立した父の仕事がいまどういう状態にあって、なこが大変なのかということに、わたしはあまり関心が向かなかった。新しい会社にすら、行ってみようという気持ちにならない。同じ屋根の下で暮らしていても、わたしも働いている一人前の人間なのだという気負いがあった。いつもどこかで気になりながら、日々は自分の仕事の刺激に押し流されるようにして過ぎて行き、親という存在に思いを馳(は)せることが面倒になっていた。わたしは、家族に背中しか見せなくなっていた。
 父は自分の会社を持てたことを、ことのほか喜んでいるように思えたりだが、母が夜中にふと目覚めると、布団(ふとん)の上に座ってひとり煙草(たばこ)を吸っている姿がよくあったという。闇(やみ)の中で、父はなにを思っていたのだろうか。暗い塊のように、じと動かぬその背中を見つめながら、母はどんな気持ちだったのか、わたしたちは互いの背中をただ見守ることで精一杯だった。
 しかしそうであったとしても、背中を支えてくれる手の感触を、わたしはどこかで感じていた。倒れぬように、後ろからしっかり支えられ、グイと力強く自転車が押し出される。自分一人で意気揚々とペダルを漕いだつもりでも、実は見えない家族の手で、外の世界に押し出されていたのだろう。
 次の日、両親は朝早く会社に向かった。母は自転車用に自分で作ったコットンのパンツに、濃いピンクの*ペイズリー柄のオーバーブラウスを着て準備万端だった。父は薄茶色の作業用ジャンパーだ。勤め人だったときに銀座の*テイラーであつらえた、艶(つや)やかな布地のスーツはーもうほとんど手を通されることがなかった。が、そのジャンパーは父に穏やかに似合っていた。
 (4)わたしは窓から首を突き出して下の道路を見つめた。やがて自転車を連ねた二人が玄関から出てきた。母が呼吸を整えてぐっとペダルを踏み込んだ。静かに臙脂色が動き出す。それを待って父の古びた黒が発進した。早朝の澄んだ陽射(ひざ)しの中に、二人の背中はゆっくり並んで遠ざかっていった。
(光野桃「背中」による)
(注) グリーンベルト ― 緑道、細長い緑地帯。
ペイズリー ― 曲線模様の一種。
テイラー ― 主に紳士服などの洋服屋、仕立屋。
[問1] (1)新しくできた駅の、まだコンクリートの色が白いプラットホームに風が吹き抜けていった。とあるが、この表現から読み取れる「わたし」の様子として最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア、  新しく仕事を始めた父のことをまだこれといった魅力もない駅の印象と重ねて、協力する意欲もわかないでいる様子。
イ、  家族に起きている変化に自分が関係してこなかったことを未完成の駅の印象と重ねて、どこからかかわるべきか悩んでいる様子。
ウ、  これまで勤めていた会社を父が辞めてしまったことを何もない殺風景な駅の印象と重ねて、納得できないでいる様子。
エ、  住み慣れない土地でこれから始まる生活を人気のない寂しい駅の印象と重ねて、漠然とした不安を感じている様子。
[問2] (2)ギュッとハンドルを握り締め、グイと前を見つめた。よし、いまだっ。掛け声とともに強くペダルを踏み込んだ。ざざっと父の運動靴が土を蹴(け)る音がする。とあるが、この表現について述べたものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア、  父の熱心な指導を受けながらも上達できないでいる 「わたし」とそのことに対していらだつ父の姿を、誇張して印象的に表現している。
イ、  緊張しで練習に取り組む「わたし」と気合いを入れて教える父の動きをすばやくとらえて描くことで、生き生きと躍動的に表現している。
ウ、  熱心に努力する「わたし」と「わたし」に振り回されながらも粘り強く教えている父の姿を、様々な角度から写実的に表現している。
エ、  自転車を練習し続ける「わたし」とその「わたし」をほほえましく感じ始めた父の様子を、時間の経過とともに客観的に表現している。
[問3] (3)「わたし、乗れたの……?」涙の下から恐(おそ)る恐(おそ)る問うと、そうだよ、もう支えなしで乗れるんだよ、と答える笑顔が目の前にあった。とあるが、この表現から読み取れる「わたし」の気持ちに最も近いのは、次のうちではどれか。
ア、  本当にひとりで乗れたのかを父に確かめずにいられなかったが、父のやさしい表情からひとりで乗れたことを実感して喜ぶ気持ち。
イ、  手を放さないでとあれだけ頼んでおいたにもかかわらず、父が手を放したことを不満に思うとともにその理由を知りたいと思う気持ち。
ウ、  実際にひとりで乗れたわけではないのに、泣いている自分を励ますために父はひとりで乗れたと言っているのではないかと疑う気持ち。
エ、  思わず泣いてしまったがいつまでも泣いていてはいけないと思い直し、父に話しかけることによって痛みをまぎらそうという気持ち。
[問4] (4)わたしは窓から首を突き出して下の道路を見つめた。とあるが、「わたし」が「窓から首を突き出して下の道路を見つめた」わけとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
ア、  父や母に冷たくしてきたことに気付いたものの、やはり前向きに生きる二人を見送ることくらいしか自分にはできないと思ったから。
イ、  闇の中で何か物思いにふけっていることがあると母から聞いた父のことが気になり、ときには出かけていく姿を見てみようと思ったから。
ウ、  見慣れていたスーツとは違う作業用ジャンパーを着た父の姿と母の自転車通勤用の服装に興味があって、一目見たいと思ったから。
エ、  父と母が自転車を連ねて出勤するのを見送ることで、母が自転車に乗れるようになったことを自分の目で確かめたいと思ったから。
[問5]  この文章では、繰り返し「背中」という言葉が使われているが、「背中」という言葉に対する「わたし」の思いを四十字以内でまとめて書け。なお、「、」や「。」などもそれぞれ字数に数えよ。
[問1] 5点
[問2] 5点
[問3] 5点
[問4] 5点
[問5]
5点
/25点
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