2006年度 東京都公立高校入試問題 50分
( 国 語 )-3
書式の関係で横書きになっています。
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[問5]  この文章では、繰り返し「背中」という言葉が使われているが、「背中」という言葉に対する「わたし」の思いを四十字以内でまとめて書け。なお、「、」や「。」などもそれぞれ字数に数えよ。
 
 次の文章を読んで、あとの各間に答えよ。(*印のついている言葉には、本文のあとに[注]がある。)
 
 「書は美術ならず」という説に対して、東京美術学校(現・東京芸術大学)をつくった岡倉天心(おかくらてんしん)は、「書は美術ならずの論を読む」と題して、書は文字の大小、配列、形を工夫するのだから美術であると反論しました。 これが現在のごく普通の書の理解だと思われます。 (第一段)
 文字には、「大」の字の右上に点を打つと「犬」、下に点を打つと「太」というような規範があり、その規範に従って字を書きます。ある人は点を遠く打ち、またある人は横画を長く書くというような個人的な癖もあります。ここに書が一つ一つ異なった顔立ちをもつ棍拠があり、この個人的な作者の書き癖の代わりに、美的工夫を書に忍ばせることもでき、そこに書の美が生まれる、という考えが現在の最も一般的な考え方でしょう。 (第二段)
 「美的工夫」というと、歴史的な規範に沿った表現がよいという考え、作者の企てに従って、規範からはみ出し歪(ゆが)める方がよいという考え、あるいは、規範に沿ったり、作者が*恣意的(しいてき)に歪めるよりも日常の自然な書きぶりがよい、という考えが出てきます。現在の書は、この三者のいずれかの立場に立って制作されているとも考えられます。 (第三段)
 (1)しかし、この「規範+美的工夫」という考えには落とし穴があります。もしも文字が規範に従って書くだけのものであるなら、いつまでも規範に従って書かれ続けますから文字が誕生した時からその姿は変わるはずがありません。しかし実際には文字は歴史的にどんどんその姿を変えてきました。この事実を考慮に入れると、「規範+美的工夫」というように文字が書かれて来たとするのも無理があるようです。 (第四段)
 詩句を書く作者というのは文字の規範に振り回されているだけの客体ではありません。作者は書かねばならないという切実な何かをもっており、それを表現するために、やむをえず規範に従います。だが、規範にも従いつつも、絶えずその規範をも超えて行こうとする力を秘めた表現の主体です。 このカが文字の姿を、例えば中国の殷(いん)の紀元前一四〇〇年頃(ころ)に甲骨文の姿で歴史上に生まれた時とは全く異なった姿にまで変革してきました。 (第五段)
 なぜ、人間は文字、本当は言葉、を書くのかという観点がこの「美的工夫諭」には脱(ぬ)け落ちています。「規範+美的工夫」によって書が生まれるという考えは一見もっともらしいが、実は素朴な理論にすぎません。 (第六段)
 この「美的工夫諭」は、「書は文字の美術論」へと逸脱していくことになります。文学は文字の意味内容に重心を置いた言語芸術だが、書は文字の視覚形象に重心を置いた視覚芸術だという説が、西洋美学者・井島勉(いじまつとむ)によって唱えられました。書は「文字の美術」、さらに拡張して考えれば、書は「文字のデザイン」ということにもなります。はたして書は「文字の美的工夫」の延長線上に考えられる「文字の美術」「文字のデザイン」なのでしょうか。 (第七段)
 これに対して、中国文学者の吉川幸次郎(よしかわこうじろう)は、「書を書く場合、点画(劃(かく))の結合が言語として指示する方向を裏切ってはならない、わざと裏切る場合には裏切るだけの自信が自覚的になければならない」という表現で、「文字の美術」の説には書にとって最も重大事であるべき言葉の問題がすっぽりと脱け落ちていることをはっきりと指摘しています。「書は文字の美術」という説は、なぜ書は言葉を書くのか、あるいはなぜ言葉を書いた場に書が生まれるのかという、言葉と書の関係の問題に入り込むことができず、書にとって最大の問題が不問にされているところが、致命的な欠陥です。 (第八段)
 書は文字の「美的工夫」+「線の美」、もしくは「文字の美術」+「線の美」というのが、現在の最も一般的な考えです。昭和に入ると書道家・鮫島看山(さめじまかんざん)という人が「書は文字と云(い)ふ素材を借りて作者の主観を表現するところの線芸術である」と宣言しました。 (第九段)
 「線の美」という考えのどこが間違っているのでしょうか。それは文字を構成する「点と画(劃)を「点と線」といってしまったことです。例えば、「大」と書いた時の一点一画は、決して野放図な点と線ではありません。文字が誕生した時から歴史的に累積した書き方を踏まえた上での、「大」という文字を構成するための、否(いな)、文字の一部であるところの点と画にはかなりません。したがって、「大」の字を三本の線からなるといっても、実際には、第一画の横画は右上がりに書かれるのが基準であること、そこには、起筆と送筆と終筆という三つの単位をもって書かれること、第二画は「左はらい」といわれるような先端に行くに従って尖(とが)る形状をもつのに対して、第三画は「右はらい」と呼ばれる先端に三角形の力のためとはらいからなる形状を備えているものであることが前提とされています。「大」の字は左右対称であると大まかにいうことがありますが、その実は決して左右対称などではありえないことは共通に理解されています。 (第十段)
 文字を構成する「点と画」を見失い、「点と線」といってしまった原因は、書を「文字を書く」と考えたところにあります。本当は「大しという文字を書くのではなくて、作者は何か切実な理由があって、「大」という言葉を書くのです。その「言葉であるところの文字」は点と画を積み重ねることから生まれてきます。(2)点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのです。「文字を書く」という考えは、このとても大切な出来事を見逃し、したがって「書は線の美」説も不十分な考えです。 (第十一段)