次の文章を読んで、あとの各間に答えよ。(*印のついている言葉には、本文のあとに[注]がある。)
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| 「書は美術ならず」という説に対して、東京美術学校(現・東京芸術大学)をつくった岡倉天心(おかくらてんしん)は、「書は美術ならずの論を読む」と題して、書は文字の大小、配列、形を工夫するのだから美術であると反論しました。 これが現在のごく普通の書の理解だと思われます。 (第一段) |
| 文字には、「大」の字の右上に点を打つと「犬」、下に点を打つと「太」というような規範があり、その規範に従って字を書きます。ある人は点を遠く打ち、またある人は横画を長く書くというような個人的な癖もあります。ここに書が一つ一つ異なった顔立ちをもつ棍拠があり、この個人的な作者の書き癖の代わりに、美的工夫を書に忍ばせることもでき、そこに書の美が生まれる、という考えが現在の最も一般的な考え方でしょう。 (第二段) |
| 「美的工夫」というと、歴史的な規範に沿った表現がよいという考え、作者の企てに従って、規範からはみ出し歪(ゆが)める方がよいという考え、あるいは、規範に沿ったり、作者が*恣意的(しいてき)に歪めるよりも日常の自然な書きぶりがよい、という考えが出てきます。現在の書は、この三者のいずれかの立場に立って制作されているとも考えられます。 (第三段) |
| (1)しかし、この「規範+美的工夫」という考えには落とし穴があります。もしも文字が規範に従って書くだけのものであるなら、いつまでも規範に従って書かれ続けますから文字が誕生した時からその姿は変わるはずがありません。しかし実際には文字は歴史的にどんどんその姿を変えてきました。この事実を考慮に入れると、「規範+美的工夫」というように文字が書かれて来たとするのも無理があるようです。 (第四段) |
| 詩句を書く作者というのは文字の規範に振り回されているだけの客体ではありません。作者は書かねばならないという切実な何かをもっており、それを表現するために、やむをえず規範に従います。だが、規範にも従いつつも、絶えずその規範をも超えて行こうとする力を秘めた表現の主体です。 このカが文字の姿を、例えば中国の殷(いん)の紀元前一四〇〇年頃(ころ)に甲骨文の姿で歴史上に生まれた時とは全く異なった姿にまで変革してきました。 (第五段) |
| なぜ、人間は文字、本当は言葉、を書くのかという観点がこの「美的工夫諭」には脱(ぬ)け落ちています。「規範+美的工夫」によって書が生まれるという考えは一見もっともらしいが、実は素朴な理論にすぎません。 (第六段) |