2006年度 東京都公立高校入試問題 50分
( 国 語 )-4
書式の関係で横書きになっています。
http://www.tsukue-no-mae.net
 「書は文字の美的工夫」「書は文字の美術」「書は線の美」 ― いずれも、近代に入って「書とは何だろうか」という問いが浮かび上がり、何とかそれを言葉で説明しようとして、たくさんの人が考えぬいたところから生まれてきた説明です。しかし、これらの普通に考えられている説は、確かに書の一面を言い当ててはいますが、十分なものではありません。おおよそは当たっているとしても、書の美の核心部を射ぬいた言葉ではありません。それでは書はどのような芸術だと考えればよいのでしょうか。「書は言葉を書く」ところに生まれる表現です。書は文字の「美的工夫」とする説も「線の美」とする説も、ともに「文字」を出発点に措(お)いたところが誤りです。文字は言葉ですから、言葉を出発点に考えるべきです。しかもその言葉を生み出すのは書き言葉においては「書く」という行為ですから、「書く」というところ(現場)から考えるべきでもあります。(3)まさに「書」とは「書」、「書く」ことにほかなりません。書家とは、一般に考えられているような書道家の別名ではなく、文字通り、書く人、「物書き」の別名であると考える時、書というものの本当の姿に出会えるように思われます。 (第十二段)
 「私が言葉を書くしという一つの構文は、「書く」という動詞が「私」という主語と「言葉」という目的語を生み出したと考えられます。動詞「書く」によって、「私」も「言葉」もともに生まれてきます。その点で、作者も作品世界も「書く」ことの中に折り畳まれてあるといえます。書は「書く芸術である」といってよいでしょう。 (第十三段)
(石川九楊 「書に通ず」による)
[注] 恣意(しい)的に ― 自分の思うままに。
 
[問1]  (1)しかし、この「頑範+美的工夫」という考えには落とし穴があります。とあるが、「この『規範+美的工夫』という考えには落とし穴があります」とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選ベ。
 
ア、  書は規範に沿うのではなくて現代的な考え方を踏まえて書くのが正しいという諭は、作者の企てを見落としてしまいがちだということ。
イ、  書は規範に従って書くことで美しさを表現するべきであるという論は、書の自然な書きぶりのよさを見逃してしまいやすいということ。
ウ、  書は規範と個人的工夫で美が生まれるという論は、規範を超えようとするカが文字の姿を変えてきた点を見失っているということ。
エ、  書は規範を超えて形を変えながら書くべきであるという論は、「書はは美術ならず」という説の理解を妨げるおそれがあるということ。
 
[問2]  この文章の構成における第七段と第八段との関係を説明したものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
 
ア、  第七段で前段までの内容を集約する事例を挙げたのに対し、第八段ではその問題点を指摘する事例を示して自説の妥当性を強調している。
イ、  第七段で前段までの内容を補足する事例を挙げたのに対し、第八段ではさらに具体的な事例を列挙して詳しく一つ一つを分析している。
ウ、  第七段で前段までの内容を否定する事例を挙げたのに対し、第八段ではその根拠となる事例を紹介して問題解決までの手順を示している。
エ、  第七段で前投までの内容を整理する古典的事例を挙げたのに対し、第八段では現代的事例を挙げて考え方の変化を明確にしている。
 
[問3]  (2)点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのです。とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選ベ。
 
ア、  文字における点と画は歴史的に累積した書き方を踏まえるだけでなく、だれもが理解できるように工夫して書いたものだということ。
イ、  文字の一点一画は単に言葉を構成するだけのものではなく、作者の切実な思いが幾重にも込められて成立しているものだということ。
ウ、  文字を構成する一点一画は単なる形状ではなく、一人一人が意識して書の美をきめ細かく表現しようとしたものだということ。
エ、  文字は規範に従って書かれているだけではなく、点と画によって作者が人知れず努力を積み重ねて書き表したものだということ。
 
[問4]  (3)まさに「書」とは「書」、「書く」ことにほかなりません。 とあるが、筆者がこのように述べたのはなぜか。次のうちから最も適切なものを選ベ。
 
ア、  「書くく芸術」は文字を書くという個人的な行為の結果として、芸術的な美であると認められることを忘れてはならないと考えたから。
イ、  言葉を生み出すのは書き言葉においては「書く」という行為であり、書道家の作品には「書く芸術」の姿が具現化されていると考えたから。
ウ、  「書く芸術」は、「書く」という目的があってこそ成立するが、それは作品世界の中に溶け込んでいて見づらいものだと考えたから。
エ、  「書」は、あくまでも人間の「書く」という行為があってはじめてその人の個性や言葉が表現され、「書く芸術」になると考えたから。
 
[問5]  国語の授業でこの文章を読んだ後、「言葉を書く」というテーマで各自が身近な体験を交えて意見を発表することとする。このとき、あなたが話す言葉を二百字以内で書け。なお、書き出しや改行の際の空欄、なども、それぞれ字数に数えよ。
 
 次のA及びBは、それぞれ「論語」に関する対談と解説文である。これらの文章を読んで、あとの各問に答えよ。(*印のついている言葉には、本文のあとに[注]がある。)
 
白川    公の場において「(1)孔子(こうし)は何でも知っている」と列席者が感心して*子貢(しこう)に言ったのを聞いて、孔子が自分の感想を述べる場面があります。
*太宰(たいさい)、子貢に問うて曰(いは)く、「夫子は*聖者か。何ぞ其(そ)れ多能なる。」子貢曰く、「固(まこと)に天之(これ)を縦(ゆる)して将(ほとん)ど聖にして又(また)多能なり。」子之を聞いて日はく、「大宰は我を知れるか。吾(わ)が少(わか)きや賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多ならんや。多ならず。」牢(ろう)曰く、「子云ふ、『吾試(われもち)ひられず。故に藝(げい)あり。』と。」(子罕篇(しかんへん)
 (現代語訳) 大宰の官の某(ぼう)が子貢に問うて、「あなたの先生は聖人でいらっしやいますか。何と多くの藝能に通じていらっしやることでしょう。」と曰ったので、子貢は、「まことに天がこれを縦して知においても行いにおいてもその量を限ることがなく、ほとんど聖人であり、又多くの藝能に通じております。」と曰って、大宰が多能をもって聖と心得ているに対して聖だから通じない所がないので、多能は聖の*餘事(よじ)であることをほのめかした。
 孔子がこの大宰と子貢との問答を聞いて、「大宰がわしを多能だというが、大宰はわしが多能なわけを知ってるだろうか。わしは少い時世に用いられないで微賎(びせん)の地位にいた。それ故多くの微細な藝能を習い覚えたのである。わしの多能なのは聖であるがためではない。成徳の君子の貴ぶ所は多能であろうか。君子の貴ぶ所はもっと重大な所にあって、決して多能に在るのではない。」と日って、自ら聖の地位におらず、又多能をもって聖とすることの誤りを示された。後で弟子たちがこの話を記した時に、孔子の弟子の牢が「先生は平日『わしは世に用いられなかったから、多くの藝能を習い覚えたのだ』といわれた」と日った。
(宇野哲人 「論語新釈」 による)
 
 ここで孔子は「(2)君子は多ならんや。多ならざるなり」と念を押すように言うております。「君子というものはむやみに物知りであるわけではない。物知りが君子であるのではないぞ。知識の問題ではないぞ」という意味ですが、これは孔子の言葉がそのまま格言になっている。いろいろ説明して納得させるというのではないんですな。もう全身全霊的に、その言葉の中に全体がうずめこまれていて、その言葉を眺めていると孔子の考えがすべて汲(く)み取れるというぐらいの深みのある言葉です。こういうのが孔子自身の言葉なんです。
 そういうような形で、『論語』を点検していくと、これは説明的である、これは大分いろいろ飾りつけをやっている、これは詭弁的(きべんてき)であるというように、すべて分別できる。孔子の言葉というのは非常に真率と言いますか、素直であり、問題の要点を非常に簡潔にあらわしています。しかも眺めていると、それがいろいろに響いてくるような言葉で答えている。『論語』の中には美文的にいろいろ飾った言葉もありますけれど、そういうものを見ていると、これは本物か、あるいは形を変えているものか、そういうことが大体わかります。