| 「書は文字の美的工夫」「書は文字の美術」「書は線の美」 ― いずれも、近代に入って「書とは何だろうか」という問いが浮かび上がり、何とかそれを言葉で説明しようとして、たくさんの人が考えぬいたところから生まれてきた説明です。しかし、これらの普通に考えられている説は、確かに書の一面を言い当ててはいますが、十分なものではありません。おおよそは当たっているとしても、書の美の核心部を射ぬいた言葉ではありません。それでは書はどのような芸術だと考えればよいのでしょうか。「書は言葉を書く」ところに生まれる表現です。書は文字の「美的工夫」とする説も「線の美」とする説も、ともに「文字」を出発点に措(お)いたところが誤りです。文字は言葉ですから、言葉を出発点に考えるべきです。しかもその言葉を生み出すのは書き言葉においては「書く」という行為ですから、「書く」というところ(現場)から考えるべきでもあります。(3)まさに「書」とは「書」、「書く」ことにほかなりません。書家とは、一般に考えられているような書道家の別名ではなく、文字通り、書く人、「物書き」の別名であると考える時、書というものの本当の姿に出会えるように思われます。 (第十二段) |
| 「私が言葉を書くしという一つの構文は、「書く」という動詞が「私」という主語と「言葉」という目的語を生み出したと考えられます。動詞「書く」によって、「私」も「言葉」もともに生まれてきます。その点で、作者も作品世界も「書く」ことの中に折り畳まれてあるといえます。書は「書く芸術である」といってよいでしょう。 (第十三段) |
| (石川九楊 「書に通ず」による) |
[注] 恣意(しい)的に ― 自分の思うままに。
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| [問1] |
(1)しかし、この「頑範+美的工夫」という考えには落とし穴があります。とあるが、「この『規範+美的工夫』という考えには落とし穴があります」とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選ベ。
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| ア、 |
書は規範に沿うのではなくて現代的な考え方を踏まえて書くのが正しいという諭は、作者の企てを見落としてしまいがちだということ。 |
| イ、 |
書は規範に従って書くことで美しさを表現するべきであるという論は、書の自然な書きぶりのよさを見逃してしまいやすいということ。 |
| ウ、 |
書は規範と個人的工夫で美が生まれるという論は、規範を超えようとするカが文字の姿を変えてきた点を見失っているということ。 |
| エ、 |
書は規範を超えて形を変えながら書くべきであるという論は、「書はは美術ならず」という説の理解を妨げるおそれがあるということ。
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| [問2] |
この文章の構成における第七段と第八段との関係を説明したものとして最も適切なのは、次のうちではどれか。
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| ア、 |
第七段で前段までの内容を集約する事例を挙げたのに対し、第八段ではその問題点を指摘する事例を示して自説の妥当性を強調している。 |
| イ、 |
第七段で前段までの内容を補足する事例を挙げたのに対し、第八段ではさらに具体的な事例を列挙して詳しく一つ一つを分析している。 |
| ウ、 |
第七段で前段までの内容を否定する事例を挙げたのに対し、第八段ではその根拠となる事例を紹介して問題解決までの手順を示している。 |
| エ、 |
第七段で前投までの内容を整理する古典的事例を挙げたのに対し、第八段では現代的事例を挙げて考え方の変化を明確にしている。
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| [問3] |
(2)点と画は決して一般的な点や線ではなく、すでに言葉の一部である文字、否、言葉そのものをすでに微粒子的に含んでいる存在なのです。とはどういうことか。次のうちから最も適切なものを選ベ。
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| ア、 |
文字における点と画は歴史的に累積した書き方を踏まえるだけでなく、だれもが理解できるように工夫して書いたものだということ。 |
| イ、 |
文字の一点一画は単に言葉を構成するだけのものではなく、作者の切実な思いが幾重にも込められて成立しているものだということ。 |
| ウ、 |
文字を構成する一点一画は単なる形状ではなく、一人一人が意識して書の美をきめ細かく表現しようとしたものだということ。 |
| エ、 |
文字は規範に従って書かれているだけではなく、点と画によって作者が人知れず努力を積み重ねて書き表したものだということ。
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